2022年3月9日
ロシアによるウクライナへの侵略行為は、人道的にも、国際法上も、許されぬものである。
したがって国際法的には、主権国家であるウクライナのゼレンスキー大統領には、ロシアに対する「自衛のための戦争」を遂行する権利があるのだろう。だから彼が自衛戦争を行うと決断したことについて、第三者は基本的に、それを尊重するという立場以外を取ることは難しいのかもしれない。
しかし一方で、個別的自衛権を行使し、ロシアに対して徹底抗戦するという彼の選択が、本当にウクライナの人々を守ることになるのかどうかについては、それとはまったく別の問題として、現実を直視しながら検討せねばならない。
なぜならその問題は、軍事力が支配するこの野蛮な世界に暮らしている私たちにとって、まったく他人事ではないからである。
私たちは軍事国家から侵略を受けたときに、それに対して、どう向き合うべきなのか。
やられたから、やり返す。
それは当然の権利のように思えるし、先述したように、国際法上、主権国家には自衛権があるとされている。
しかし問題は、繰り返すようだがそれで本当に国や国民を守れるのか、ということだ。
というのも、やられたからやり返せば、相手も当然、さらにやり返してくるのが物事の常である。それに対してやり返せば、相手もさらにやり返してくるだろう。
実際、ロシアとウクライナはそのようにして、恐るべき暴力の連鎖に陥ってしまったように見える。NATO諸国はウクライナに武器を供与するらしいが、それは火に油を注ぐようなものであろう。下手をすると、この戦争はシリアやイラクやアフガニスタンの戦争のように何年も続き、ウクライナは焦土と化すのではないかと懸念している。
忘れてならないのは、戦場となっているのは、誰もいない無人の荒野ではないということである。それはウクライナの人々が日々の生活を営んでいる住まいであり、商店街であり、病院であり、学校である。戦争が長引けば長引くほど、街はむやみに破壊され、人が死ぬ。人々は生活の場を失い、大量の避難民が生じる。
3月4日には、ロシア軍の攻撃によって、ザポリージャ原発で火災が起きたという衝撃的なニュースも入ってきた。ひとたび戦争になれば、戦火は原発にまで及びうる。幸い、現時点で火災は鎮められ、原発も破壊されていないようだ。しかし一つ間違えば、ウクライナのみならず、ヨーロッパやロシアが広範に放射能で汚染される事態になりかねない。
くどいようだが、「正しさ」だけを問うならば、ウクライナの自衛戦争は大義のある「正義の戦争」なのかもしれない。そういう意味では、それを断行するゼレンスキー大統領は「英雄」なのかもしれない。
しかしその正義の戦争が、本当にウクライナの民を守ることになるのかどうか。
(以下略)