「沖縄問題」ではない、この国の「在り方」の問題なのだ
~沖縄復帰50年の課題とは~
来年の2022年5月15日、沖縄県は「日本復帰50周年」を迎えます。思い出すのは高校を卒業した1969年。激しい政治闘争の季節が続いていました。私たちは沖縄に近い鹿児島大学で、4月28日の沖縄デー(サンフランシスコ条約が発効し、沖縄が日本から切り離された日)や6月23日の沖縄慰霊の日(組織的沖縄戦終結の日)を中心に毎週のように千人規模のデモを組織しました。もちろん、海の向こうの沖縄でははるかに激しい復帰闘争が繰り広げられていました。スローガンとして「沖縄解放」なのか「沖縄奪還」なのか「沖縄復帰」なのか、真剣に議論した記憶が鮮明に残っています。あのとき、沖縄の人々がめざしたものは何だったのでしょうか。「平和憲法の下の日本に戻りたい」という声もありました。「復帰すれば米軍基地はなくなる」という期待もありました。そして1972年、沖縄は復帰を果たしました。あれから50年、最終的に沖縄が受け入れられる限度として琉球政府が提示した「即時無条件全面返還」も、日本政府が約束した「核抜き、本土並み返還」も実現せず、沖縄の人々は「だまされた」と怒り続けています。先日の総選挙では改憲勢力が3分の2を超え、沖縄の人々が夢見た「軍隊がない平和な日本」を保証する現憲法を明治憲法のような内容に戻そうという憲法改定の動きが強まっています。南西諸島の軍事要塞化だけでなく、日本列島全体の軍備強化と、国民を“見ざる・聞かざる・言わざる”状態にする情報統制により軍事国家への道が着々と進んでいます。私たちはいまこそ、50年前に沖縄の人々が描いた社会像を思い起こすべきです。私たちがめざすべき社会・あるべき社会がそこにあると思うからです。それは「基地のない平和な沖縄」「非武装の平和な日本」です。
◎多くの人々は「基地のない平和な沖縄」を求めた
第二次世界大戦直後の沖縄では、沖縄の帰属に関してさまざまな議論が交わされたそうです。日本に復帰すべきか、独立すべきか、あるいは国際連合の信託統治下に置かれるべきなのか。サンフランシスコ平和条約では「米国から国際連合への提案があった場合、北緯29度線以南の南西諸島などを米国の信託統治下に置くことに日本国が同意する」ことが規定されました。しかし、アメリカは信託統治の提案をせず、「(米国は信託統治になるまで)これらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」という規程によってアメリカが沖縄を施政権下に置き、占領統治を続けたのです。一方、日本の委任統治領であったミクロネシア(“南洋群島”)は戦後アメリカの信託統治領となり、その後アメリカと自由連合協定を結んで独立しました。国連に参加できる独立国といっても、アメリカが軍事権と安全保障に関わる外交権を有し、その代わりにミクロネシア諸国(マーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦、パラオ共和国)はアメリカから経済援助を受けるという内容でした。沖縄がアメリカの信託統治領にならなかったことは日本政府が沖縄に潜在的主権を有する根拠になった、という解説もありますが、もし沖縄・奄美・小笠原がアメリカの信託統治領になっていたら、いまごろ沖縄はどうなっていたでしょうか。独立国・琉球は自らの意思に反して薩摩藩や明治政府に侵略され、消滅させられたのですから、沖縄独立論には国際的に十分な正当性があると言え、独立を主張することもできたでしょう。
アメリカの施政権下では沖縄・奄美で激しい復帰闘争が展開されました。奄美では1951年2月に「奄美大島日本復帰協議会」が、沖縄では1953年1月に「沖縄諸島祖国復帰期成会」が結成されました。米軍は土地を強制収容し、基地を作ることに対する反対闘争が展開され、伊江島では阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんたちが爆撃演習下で農耕を強行するなどの闘いを展開、沖縄島を縦断する「乞食行進」を行ったことはよく知られています。伊江島の運動は「島ぐるみ闘争」と呼ばれる沖縄全体の運動の導火線になったといわれます。
1964年4月に「日米協議委員会」「日米琉技術委員会」が設置され、日本と沖縄との「一体化」政策が推し進められ、1967年11月の日米首脳会談では両3年以内に返還の時期を決定することが合意されました。そして日米両政府の間で沖縄返還交渉が正式に始まり、1969年11月の日米首脳会談で沖縄の日本復帰が正式に決まったのでした。
沖縄の多くの人々が求めたのは「基地のない平和な沖縄」です。それは武力放棄を宣言した日本の平和憲法の下で生活することと同義語でした。しかし、返還は日米政府の秘密交渉で進められ、琉球政府の意向も反映されませんでした。屋良朝苗・琉球政府主席は1971年11月、沖縄の県民の声を書いた「復帰措置に関する建議書」を持って上京しましたが、国会ではその前に返還協定が衆議院特別委員会で強行採決されました。5月11日は沖縄の人々にとっては4月28日に続く“屈辱の日”でもあったように思います。また、中央政府に“だまされた”のです。当時、国家に拠り所を求めた復帰運動自体が誤りだったとする「反復帰論」が台頭したそうですが、それも理解できます。
◎日本政府は空手形の“本土並み”、米国とは密約
日本政府は「核抜き、本土並み返還」と言いましたが、本土並みとは「運用面を本
土と同等にする<形式的本土並み>」でした。日本政府高官は在沖米軍基地の整理縮小が復帰後に行われるとの展望を語り、米軍基地の規模と密度も本土と同等になるという<実質的本土並み>の可能性は示したようですが、日本本土がサンフランシスコ平和条約によって政府の独立以降に基地が撤去され、縮小されてきたことがその論拠でした。しかし、本土の基地縮小の実態は米軍基地を沖縄に移転させたからであり、沖縄の“本土並み”を実現するには沖縄の米軍基地をなくすか本土に戻すしかしないことには“ほおっかむり”状態で答えませんでした。これは、安倍政権の<表では知らん顔、裏では憲法改悪一直線>という姿勢にも通じます。返還交渉において日本政府は「核抜き」といいながら有事の際には「基地の自由使用」と「核兵器の再持込み」を約束し、アメリカが負担すべき返還費用もベトナム戦争の戦費で大変なアメリカを助けるべくほとんどを日本政府が負担するということになり、これらは秘密協定という形で国民の目から隠されました。国民全体がだまされたのです。秘密がばれても日本政府は知らん顔、財政負担は“思いやり予算”や武器の爆買いなどとして続いています。
◎憲法改悪を阻止し、軍縮・非武装の社会を
50年前の沖縄の日本復帰は、日本の主権回復であったかもしれませんが、決して沖縄の権利回復ではありませんでした。それは、現在の辺野古新基地建設に対する沖縄の民意無視を見てもわかります。そして、日本国民はそれを許してきたのです。沖縄問題が実は日本という国の在り方の問題であることがわかると思います。「民主主義がこの国にあるのか」ということです。「地方自治」はどこに行ったのでしょうか。アメリカの施政権下で沖縄では司法・立法・行政の三権分立が行われ、国家的要素をかなり持っていたそうです。琉球政府は復帰後沖縄県に化粧替えされましたが、組織体制が異質なため作業が大変だったと聞きます。単純に考えればそのまま独立国になった方がスムーズだったのです。
これまでの経緯からすれば、少なくとも日本政府は日沖間交渉で示した「実質的本土並み」を実現する義務があります。米軍基地でいうと「基地撤退」ということになります。いまでも政府は「沖縄の基地負担軽減」を言っていますが、“本土並み”のレベルをはっきり示すべきです。ただ、米軍の代わりに自衛隊が入ってくるのでは沖縄にとって何も変わりません。50年前に沖縄の人々が望んだ「基地のない平和な沖縄」をめざして、米軍・自衛隊全体の軍縮プランを立てて着実に実行させる必要があります。
沖縄は「日本という国の在り方」に縛られています。自民党の憲法改正草案を見ると、前文から国民主権と不戦の決意を削除し、第9条に国防軍を明記するとなっています。天皇を元首とし、憲法は権力を縛るものから国民を縛るものに変わります。そうなると、さらに沖縄支配が強まり、南西諸島の軍事要塞化がさらに進んでシリアやアフガニスタンのような地域がでてくるようで心配です。私たちは、平和憲法に憧れた沖縄の人々とともに憲法改悪を阻止し、この国を民主化することがいまもっとも必要なことではないでしょうか。独立国とは言わないまでも、沖縄に独立国に近い高度な自治政府を樹立し、非武装地帯として平和な暮らしが訪れることを夢見ています。