2022/11/28
柳澤 協二 (ND評議員/元内閣官房副長官補)
マイク・モチヅキ(ND評議員/ジョージ・ワシントン大学准教授)
屋良 朝博 (ND評議員/前衆議院議員〈沖縄選出〉)
半田 滋 (防衛ジャーナリスト/元東京新聞論説兼編集委員)
佐道 明広 (中京大学国際学部教授)
猿田 佐世 (ND代表/弁護士〈日本・米ニューヨーク州〉)
========= 提言 =========
● 安全保障政策の目標は、戦禍から国民を守ること、即ち、戦争回避でなければならない。抑止力強化一辺倒の政策で本当に戦争を防ぎ、国民を守ることができるのか。
軍事力による抑止は、相手の対抗策を招き、無限の軍拡競争をもたらすとともに、抑止が破たんすれば、増強した対抗手段によって、より破滅的結果をもたらすことになる。抑止の論理にのみ拘泥する発想からの転換が求められる。
戦争を確実に防ぐためには、「抑止(deterrence)」とともに、相手が「戦争してでも守るべき利益」を脅かさないことによって戦争の動機をなくす「安心供与(reassurance)」が不可欠である。
● 台湾有事にいかに対処するかは、戦争に巻き込まれるか、日米同盟を破綻させるかという究極の選択を迫る難題である。それゆえ、台湾有事を回避するために、今から、展望を持った外交を展開しておかなければならない。
例えば、米国に対しては、過度の対立姿勢をいさめるべく、米軍の日本からの直接出撃が事前協議の対象であることを梃子として、台湾有事には必ずしも「YES」ではないことを伝えることができる。台湾に対しては、民間レベルの交流を維持しながら、過度な分離独立の姿勢をとらないよう説得することができる。中国に対しては、台湾への安易な武力行使に対しては国際的な反発が中国を窮地に追い込むことを諭し、軍事面では米国を支援せざるを得ない立場にあることを伝えながら、他方で台湾の一方的な独立の動きは支持しないことを明確に示すことで、自制を求めることができる。また、日本は立場を共にする韓国や東南アジア諸国連合(ASEAN)を含む多くの東アジア諸国と連携して、戦争を避けなければならないという国際世論を強固にすることもできる。
台湾有事は、避けられない定められた運命ではない。日本有事に発展するかどうかも、日本の選択にかかっている。回避する道のりがいかに困難であっても、耐えがたい戦争を受け入れる困難さは外交による問題解決の困難を上回る。政治は、最後まで外交を諦めてはならない。
● 「抑止」としても「対処」としても、必要な条件を満たさず、戦争拡大の契機ともなる敵基地攻撃を、政策として宣言するのは愚策である。
● 政治は、戦争を望まなくとも、戦争の被害を予測し、それを国民と共有するべきである。それは、防衛のための戦争であっても、戦争を決断する政治の最低限の説明責任であり、それなしに国民に政治の選択を支持させるのは、国民に対する欺罔行為である。
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■ 戦争の危機の時代における政治の課題
戦後日本は、70年以上にわたり、戦禍に巻き込まれることがなかった。その背景には、米ソ両大国間の安定的な相互抑止関係が存在したこと、および、日米同盟の下にありながらも日本国憲法のもとで抑制的な防衛姿勢を維持し、米軍の行動と一線を画してきたことがあった。結果として、ミサイルが日本に着弾することなく、また、海外に派遣された自衛隊が一発の弾を撃つこともなく、一人の戦死者もなく今日に至っている。
今日、米ロ、米中という大国の間に安定的な相互抑止関係があるとは言い難い。今年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻に加え、台湾海峡における軍事的緊張の高まり、北朝鮮によるたび重なるミサイル発射は、日本国民のなかに戦争の不安を増大させている。その状況を受け、政府は、日米同盟による抑止力の強化、敵基地攻撃能力の保有を含む防衛力の大幅な増強を目指すとともに、2015年の安全保障関連法に基づく日米の軍事的な一体化を加速させている。
一方、連日報道されるウクライナの状況は、始まった戦争を終結させることが困難であること、ミサイルから安全な場所はなく、民間人の犠牲を防げないことを示している。台湾有事が起きれば、沖縄を含む日本の各地域で同じことが起きる。戦争は回避しなければならない。これが、ウクライナ戦争の最大の教訓である。
防衛政策の目標は、何よりもまず、戦禍から国民を守ることである。抑止力強化一辺倒の政策で本当に戦争を防ぎ、国民を守ることができるのか。その代替策を含め、いかにして戦争を回避するかを活発に論じることこそ政治の使命であり、政治の対抗軸であるべきである。
同時に、国連安保理常任理事国であるロシアによる侵略行為は、戦後国際秩序をかろうじて支えてきた国連そのものの危機でもある。このままでは、世界は再びルールなき戦争の時代になってしまう。
国際社会は、戦争を契機としながら戦争を規制する国際システムを模索してきた。それを維持するために必要なのは、世界を滅亡に導きかねない戦争を避けることである。そのためには自国の利益より共通の秩序を優先する大国の自制が欠かせない。自制が失われたところに、ロシアのウクライナ侵攻があった。そして今、中国について、同じ懸念が生じている。
日本は二つの大きな課題に直面することになった。一つは、台湾有事という目前にある米中の戦争の危機をいかに防ぐかという課題であり、もう一つは、国連をはじめとする世界秩序をどう再構築するかという課題である。
日本の安全保障をめぐる論議は、もっぱら同盟と抑止力の強化に焦点を当てている。その背景には、日米の抑止によって、日本を脅かす戦争が防がれてきたという成功体験がある。だが、大国間の相互抑止が安定していない今日、軍事力だけでは戦争の恐怖から逃れることはできない。同盟国から見捨てられるか、同盟国の戦争に巻き込まれるかという「同盟のジレンマ」が顕在化する。
ロシアのウクライナ侵攻に際して、米国はウクライナへの米軍派遣を否定したが、それは、米国がロシアと直接衝突すれば、世界戦争になるという懸念があるからである。大国を抑止するためには大国間の戦争を覚悟しなければならず、また大国間の戦争を避けようとすれば大国の暴走を止められない。これが、ウクライナ戦争が突き付けた抑止の現実である。我々は、大国の武力行使も、世界戦争も、選択することはできない。
戦争回避が日本の安全保障政策の目標でなければならない。そのためには、抑止の論理にのみ拘泥する発想からの転換が求められる。
残念ながら国会やメディア報道における議論は、「敵基地攻撃の要件をどうするか」といった技術論に終始している。日本が内向きの理屈で自問自答しても、軍事的な能力には限界があり、米中の大国間戦争を止める力にはなり得ない。
岸田文雄首相は、2021年の自民党総裁選挙に当たって、「まずは外交努力をするが、有事となれば平和安全法制(安全保障関連法)に従って対応する。」旨述べた。そこには、「何としても有事にしない」という強い信念は見えない。
「外交には一定の力の裏付けが必要だ」という主張もある。この点、まずは、日本の自衛隊が、既に世界有数の軍事力をもつ存在となっていることを忘れてはならない。さらには、外交の目標とは何であるのか。相手を説得することであるなら、必要な力は強制手段としての軍事力だけではなく、国際世論と協調した道義的な説得力や、日本の善意と魅力を伝えるソフト・パワーが必要となるはずだが、今、外交の目標とそれに見合う力をどう調和させるかの議論は行われていない。
政治が考えるべきことは、米中の軍事衝突をどのように防ぐか、そして、安定した国際秩序をいかに構築するか、そのために日本に何ができるのかという問いかけに答えることである。我々は、まずこのことを、与野党を問わず、日本の政治に求めたい。
■ 台湾有事に巻き込まれるか、回避するか
戦争は、ウクライナ侵攻におけるロシアがそうであったように、楽観的見通しによって始まる。それゆえ、勝利を楽観視させないための防衛の意思と能力は必要である。同時に、戦争は、他の手段では目的を達成できないという「外交への悲観」によっても始まる。それゆえ、戦争を防ぐためには、外交による解決の余地を残す政治的柔軟性が必要となる。
抑止とは、戦争を企図する者に対して、戦争による利益を上回る損害、あるいは、耐え難い損害を被ることを認識させて、思いとどまらせることである。抑止のためには、相手がこちらの反撃の能力と意思を疑わず、手痛い損害を被ることを確信する必要がある。だが、そこには多くの誤算や認識の齟齬が生まれる。
相手は、こちらの意思を軽視するかもしれない。あるいは、損害を過小に見積もるかもしれない。さらに、「いかなる反撃を受けても断じて譲歩できない」と考えるかもしれない。これらは、ロシアがウクライナ侵攻で示した侵略する側の心理である。
反撃を図ろうとする側も、どの程度の武力を加えれば相手が侵攻を断念するか、正確には理解できない。そこで、反撃力が大きいほどよいと考える。その究極には、核兵器がある。一方、反撃が大きいほど、相手の再反撃も大きくなる。やがて武力によって抑止しようとする側も、大きな損害を覚悟しなければならなくなる。
大国を抑止するには世界戦争を覚悟しなければならない。それは、ロシアだけではなく中国についても同じである。
今日、台湾をめぐる米中の対立は、民主主義対専制主義というイデオロギー対立の焦点となっており、双方が判断を誤れば取り返しのつかない戦争に至るおそれがある。米軍の前線拠点である日本が米国に加担すれば、中国との戦争に巻き込まれる。一方、米国に加担せず、中立の姿勢をとれば日米同盟は崩壊する。台湾有事にいかに対処するかは、「安全保障関連法に従って対応すればよい」という単純な問題ではなく、戦争に巻き込まれるか、日米同盟を破綻させるかという究極の選択を迫る難題である。
それゆえ、戦争を回避し、戦争の危機があれば早期に収拾するために、今から、展望を持った外交を展開しておかなければならないのである。
軍事力による抑止は、相手の対抗策を招き、無限の軍拡競争をもたらすとともに、抑止が破たんすれば、増強した対抗手段によって、より破滅的結果をもたらすことになる。
戦争を確実に防ぐためには、「抑止(deterrence)」とともに、相手が「戦争してでも守るべき利益」を脅かさないことによって戦争の動機をなくす「安心供与(reassurance)」が不可欠である。しかし、日本においては、専ら抑止の観点からのみ安全保障を論じる傾向が強く、安心供与の概念はほとんど認識されていない。
安心供与は、一方的に譲歩することではない。和解が困難な相手であればあるほど、互いに譲れない最低限の要求を認識し、それを両立させる道筋を見出すことである。それは、過大な要求を相互に排除し、利害対立の緩衝領域を確保する外交のアートである。そこには、抑止と同様、誤算や齟齬が存在する余地があり、長引く不快な交渉も余儀なくされるだろう。それを支えるものは、戦争を回避する強固な意志である。
70年を超えて日本が戦争に巻き込まれなかった時代の条件が大きく変化している今日、外交本来の力が試されている。政治は、軍事力に頼った抑止にのみ目を奪われることなく、戦争を回避するための外交を展開しなければならない。
■ 台湾を次のウクライナにしないために
米国は、ウクライナに大規模な武器支援を行い、ロシアの戦争プランを誤算に導いている。仮にロシアがこれを予測していれば、2月の侵攻はなかったかもしれない。だがそれは後になって初めてわかる予測困難な産物である。一方、中国は、これを予測できる。それゆえ、台湾への武力行使には慎重になるとともに、米国の武器支援に対抗する手段を周到に準備するだろう。本年8月の台湾を包囲する軍事演習は、米国からの支援を阻止する能力を示すものであった。
安心供与の観点から言えば、NATOの拡大や兵力配備について交渉の余地はあったとしても、ウクライナの全土又は一部を支配下に置くというロシアの主張は、国家主権の原則に反し、安心供与を読み取る余地はまったくない。
他方、「台湾が中国の一部である」という中国の主張は、米中・日中の国交樹立時の共同声明にも示され、これまで、国際的に否定されたことはなかった。問題は、中国が武力による統一に踏み切るかどうかということにある。
中国は、「外国の干渉や台湾独立勢力に対する武力行使を放棄しない」と言っている。米国は、「中国の武力行使を容認せず、台湾防衛を支援する」との立場である。台湾の立場は、「中国本土との統一を望まないが、戦争につながる独立宣言をしようとは思わない」というところに集約できるだろう。三者は、それぞれ異なった思惑を持ちつつも、「現状維持」を最低限の目標としている。同時に、いずれの当事者も、戦争を望んでいない。
他方、2019年の中国による香港弾圧を経た結果、台湾では「一国二制度」への共感が失われ、分離を志向する傾向が強まっている。米国も、「一つの中国」政策を維持すると言いつつ、「台湾関係法」による台湾防衛を重視する傾向を強め、かつてのように台湾の分離思考をいさめることはしない。こうした米台の姿勢が、中国の不満を煽っている。こうして、中台の思惑の違いが明白となり、そこにイデオロギーによる米中の覇権争いが重なって、政治的な妥協を難しくし、戦争の要因を高めている。
ロシアのウクライナ侵攻では、日本は当事者になっていないが、地理的に近い台湾有事は別である。まず、日本は戦争となれば最も影響を受ける国であり、そして、日本は米中双方と緊密な関係があり、双方と対話できる立場にあるからである。その日本が、台湾有事の回避のために何もしないという選択肢はない。だが、そのための日本独自の外交戦略が見えないことが問題である。
例えば、米国に対しては、過度の対立姿勢をいさめるべく、米軍の日本からの直接出撃が事前協議の対象であることを梃子として、台湾有事には必ずしも「YES」ではないことを伝えることができる。台湾に対しては、民間レベルの交流を維持しながら、過度な分離独立の姿勢をとらないよう説得することができる。中国に対しては、台湾への安易な武力行使に対しては国際的な反発が中国を窮地に追い込むことを諭し、軍事面では米国を支援せざるを得ない立場にあることを伝えながら、他方で台湾の一方的な独立の動きは支持しないことを明確に示すことで、自制を求めることができる。これらは、日本の率直な立場の表明であり、それなりの信憑性をもって受け止められるだろう。その立場は、韓国や東南アジア諸国連合(ASEAN)を含む多くの東アジア諸国の立場と共通している。日本は、これらの諸国と連携して、戦争を避けなければならないという国際世論を強固にすることができる。
台湾有事は、避けられない定められた運命ではない。日本有事に発展するかどうかも、日本の選択にかかっている。回避する道のりがいかに困難であっても、耐えがたい戦争を受け入れる困難さは外交による問題解決の困難を上回る。政治は、最後まで外交を諦めてはならない。
また、こうした外交のプロセスは、その成否にかかわらず、大国の戦争を規制する新たな国際的ルール作りのモデルとして、歴史的な意義を持つことになるだろう。
■ 「敵基地攻撃論」における政治の役割
日本政府は、抑止力と対処力の強化のため「敵基地攻撃能力」を始めとする防衛力の抜本的強化の方針を打ち出している。それにより戦争を抑止し、場合によっては軍事力を行使する、という論理である。
敵基地攻撃が抑止として機能するためには、相手が攻撃による目的を達成できないと認識するほどの損害を与える必要がある。相手が中国であれば、沿岸部の数か所の基地を攻撃するだけでは不十分で、内陸部にある基地や堅固に防護された司令部を含め、致命的なダメージを与えなければならない。日本がそれだけの能力を持てると考えるのは、現実的ではない。
そこで、足らざるところは米国が補ってくれるという前提で、日本の反撃能力が限定的でも抑止に役立つ、という論理がある。だが、米国が参戦すれば、世界戦争になるリスクは否定できない。
飛来するミサイルから防御する観点で言えば、ミサイル基地を破壊すれば、発射されるはずであったミサイルを防ぐ効果はあるだろう。だが、すべてのミサイル施設を破壊することは不可能であり、必ずミサイルによる報復がある。最も重要なことは、自衛隊や在日米軍基地と基地周辺の民間人を相手の再反撃から守ることである。だが、被害局限や住民保護については語られていない。
また、敵基地攻撃とは、敵基地がある相手国本土を攻撃することである。相手もこちらの本土に報復して戦争が拡大する。こちらの被害も拡大し、早期終結を困難にする。
軍事技術の進展を考えれば、自衛隊がスタンドオフ防衛能力を持つことを否定するのは困難だろう。だからこそ、その運用には慎重でなければならない。「抑止」としても「対処」としても、必要な条件を満たさず、戦争拡大の契機ともなる敵基地攻撃を、政策として宣言するのは愚策である。こうした政策を持つことで防御を楽観視し、かえって戦争回避のための外交がなおざりになることが懸念される。
政治は、独りよがりの抑止論に終始すべきではない。自国の政策がかえって相手との対話を困難にすることがないよう、外交戦略のなかでの防衛の役割を考えなければならない。
■ 日本に欠けている戦争のリアリティー
台湾周辺の軍事的緊張の高まりは、沖縄に強い危機感をもたらしている。武力衝突があれば、最前線になる沖縄が耐えがたい犠牲を被ることになる。
戦争においては、前線のミサイル部隊などが優先的な標的となる。自衛隊がミサイル部隊を配備する石垣島などの離島では、有事に住民を避難させるシェルター建設が取り沙汰されている。だが、米軍や自衛隊の拠点という意味では、嘉手納や普天間基地がある沖縄本島も同様であり、戦争が拡大すれば、三沢、横田、横須賀、岩国、佐世保などの基地がある本土も例外ではない。基地が真っ先に攻撃されるのは戦争の常識であり、ミサイルの標的となるリスクは、沖縄だけの問題ではないのである。
戦争に備えるのであれば、日本中にシェルターを作らなければならない。それは、現実的な施策と言えるのだろうか。今日のミサイル技術の趨勢を踏まえれば、発射の兆候はもとより、飛翔経路を把握することも困難である。どの地域を対象に、いつ避難するかを正しく決定することは不可能に近い。長期にわたって住民を避難させれば、経済は崩壊する。
問題の本質は、こうした弥縫策で国民の命を守れるのか、ということである。国民の命を守るためには、戦争そのものを回避しなければならない。
戦争となれば、海外に資源を依存する日本において、国民生活が成り立たなくなることは自明である。まして最大の貿易相手国の中国であれば、戦争前から、日本の交易路を妨害する能力があり、レア・アースなどの輸出禁止や日米企業の資産を凍結するなど、多彩な強制手段を持っている。こうした経済的影響が論じられることがないのは、政治の怠慢というほかない。
総じて言えば、日本の安全保障論議は、戦争のリアリティーに基づいていない。戦争は、彼我の相互作用であり、犠牲のない戦争はあり得ない。様々な戦争シミュレーションも行われているが、軍事的な作戦を主なテーマとし、外交的な危機管理をテーマとしていない。また、その取り組みがまじめであればあるほど、「国民保護の壁」にぶつかっている。
政治は、戦争を望まなくとも戦争の被害を予測し、それを国民と共有するべきである。それは、防衛のための戦争であっても、戦争を決断する政治の最低限の説明責任であり、それなしに国民に政治の選択を支持させるのは、国民に対する欺罔行為である。
防衛政策の目標は、何よりもまず、戦禍から国民を守ることである。大国間の抗争が世界を不安定化させるなかで、1発のミサイルの着弾もなく、一人の戦死者もなかった状態を維持することは、容易ではない。大国間の戦争を防がなければ、国民の安全を維持することはできないからである。
「大国間戦争の回避」というテーマは、日本が一貫して考えてこなかった課題であり、「大国に依存する抑止」という思考の枠のなかでは、答えがない課題でもある。その意味で、日本の安全保障は大きな転換点にある。
政治の使命である「国民を守る」という原点に立ち返り、戦争を回避するため日本が何をすべきか、してはならないかを論じなければならない。