「ne plu kapitalismo 不可解な領域へ:思想、文化、運動」への投稿に
<今のウクライナのようになったとき、反戦・非戦論者はどのようにするか>
を私たちに突きつけるような情報がありました。
・以下のサイトにあります。
投稿者のTOSHIさんは以下のように述べています。
・以下は、the Truthoutに掲載された記事の翻訳です。ウクライナの左翼は、以下の記事で象徴的に紹介されているように、ウクライナに残るという決断をしたばあいの二つの選択肢、つまり、徹底して非暴力不服従を選択するのか、それとも武器をとるのか、の二つの選択肢の間で決断を迫られている。ウクライナの文脈のなかで、この二つの選択肢がどのような意味をもつのかは下記の記事にあるように、容易な問題ではない。これまでも武力行使を否定してきたウクライナ平和主義運動は国内の極右に狙われ続け、他方でロシア軍に対する武装闘争を選択したイリヤらはアナキストでありながら腐敗した政府の国軍との連携を余儀なくされる。
さて、私の関心はむしろこの戦争への日本国内の論調が、反戦運動も含めて、ナショナリズムの罠を回避しきれていないことへの危惧にある。日本のなかのロシアの侵略戦争への反対という正しい主張が、侵略に対して自衛のための戦争は必要であり、だから自衛力としての自衛隊もまた必要なのだという間違った考え方を正当化しかねないのではないか。人々のナショナリズムの感情が軍事力の行使を正当化する心情として形成されてしまうのではないか、という危惧だ。ウクライナの国や「民族」を防衛すべきとするウクライナ・ナショナリズムの感情形成への回路があることを反映して、ウクライナの現状を学校で教える日本の教師たちが、「だから、日本もまた、国土を守るために自衛隊が必要であり、私たちも侵略者と闘う覚悟が必要だ」といった感情を子どもたちに与えかねないし、大人も地域の人々も同じようなナショナリズムへの同調という心情の共同体を容易に形成してしまうのではないか。もちろん政権や政治家たちも、この戦争事態を格好のナショナリズムと自衛隊肯定から自衛力としても武力行使の肯定へ、つまり9条改憲の正当化へと繋ごうとすることは目にみえている。
改憲反対という人達のなかで、どれだけの人達が自衛のための戦争もすべきではない、戦争という選択肢は侵略されようともとるべき手段ではない、ということを主張できているだろうか。
(以下略)