*今回のメルマガは弁護士の内田雅敏さんからの寄稿です。薩摩藩による琉球侵攻から、沖縄県設置までの歴史的経過について振り返っていただきました。
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■琉球両属と台湾出兵 廃藩置県と琉球王国の廃止・琉球藩の創設から沖縄県設置まで(上)
*はじめに*
最近の中国のメディア、論壇では「琉球帰属未定論」がかなり語られているという。これらの論議が中国指導部の了解のもとになされているとみることは中国という国のシステムからすれば当然だ。もっとも「帰属未定論」といっても、尖閣諸島(中国名釣魚島)問題とは異なり、中国側が沖縄の領有を主張しているというわけではないようだ。
中国側が言う、「沖縄帰属未定論」には、米・日・韓による対中国包囲網が形成される中で、米軍基地の重圧に呻吟する沖縄県と、これを放置し、さらにミサイル網等による軍事要塞化を進める日本政府との間に存在する「隙間」にくさびを打ちこもうとする中国政府の狙いが透けて見える。6月4日の「人民日報」は沖縄と中国の歴史関係を強調する習近平氏の発言を報じた。
2005年、小泉首相(当時)の靖國神社参拝と、日本の国連常任理事国入りの工作に反発した中国での「反日」デモで「愛国無罪」を掲げて日本の店舗を襲った群衆の中に「沖縄奪還」のプラカードがあった。何をいまさらと思ったが、これを見て、一部で〈尖閣で譲ったら次は沖縄だ〉と危機感が語られたのも事実である。
〈沖縄中国帰属論〉が無理筋であることは後述するとおりであるが、他方、日本政府が振りかざす〈琉球日本固有領土論〉は自明のことなのかについて考えるに際して、日中間の近・現代史において琉球帰属がどのように語られてきたかを振り返ってみることは尖閣諸島領有問題の解決をも含めて有益だと思われる。
*薩摩藩による琉球処分*
1609年 薩摩藩は琉球王国(北部琉球列島の奄美群島も含む)を征服した。こ
の遠征は江戸幕府(1603年設立)の了解の下になされた。
以後、琉球王国は中国(明国)と薩摩に両属することになるが、両属の中身は中国と薩摩では違う。前者は華夷秩序による朝貢であり、ここでは、臣下の礼は取るものの、いわゆる「収奪」はなく、朝貢品に倍する以上の文物が琉球王国に下賜された。他方、後者は文字通りの収奪〈後の帝国主義下の植民地支配に類似〉であり、薩摩藩は莫大な収益を得た。後にこれが討幕の資金となった。
なお、1853ペリーが琉球に来航し、翌1854年に琉米修好条約を締結した。さらに、1855年には琉仏修好条約が、1859年には琉蘭修好条約が結ばれた。これらの条約は後述する琉球藩の創設による琉球王国の消滅により失効した。
*廃藩置県と琉球藩の創設*
1868(慶応4)年、明治政府が成立し、1871(明治4)年、
廃藩置県がなされ、これまで各藩(大名)隷属していた民衆が明治中央政府(天皇)に直属することとされた。その際、琉球も一挙に鹿児島県に組み入れるという案もあったが、中国の反発を考慮し、北部琉球列島の奄美群島だけを鹿児島県に組み入れ、琉球王国に代わって琉球藩を創設(1872年)し、これまでと同様、中国(清)と(薩摩藩→鹿児島県でなく)明治政府(天皇)に両属させることとした。尚王は廃され藩主とされ、華族(侯爵)に列せられ、東京に家屋敷が与えられた。
明治政府には「琉球国王は乃(すなわ)ち琉球の人類にして国内の人類と同一には混(こん)看(かん)すべからず」と、琉球人は日本国民ではないという認識があった(毛利敏彦『台湾出兵』中公新書)。
1871年9月、日本は清との間で日清修好条規(日清対等)を締結し、国交を樹立させた
台湾出兵
1871年11月、遭難した宮古島の漁民(地方役人説もある)が台湾南部に漂着したところ、高砂族と総称される先住民の一つ、牡丹社の襲撃を受け、54人が殺されるという事件が発生した(牡丹社事件)。
明治政府が中国(清国)に抗議したところ、中国は、① 宮古島は中国領であり、殺された漁民は日本人ではなく中国人である、② 台湾は「治理の及ばない化外の地」であると回答した。
事件発生から2年半を経た1874(明治7)年5月、明治政府は、殺された宮古島漁民に対する賠償と事件の再発防止(自国民保護)を求めて台湾出兵(5月~10月)をした。
明治政府による初めての海外派兵であり、秀吉の朝鮮出兵から274年、薩摩藩の琉球王国征服から260余年を経ての海外出兵であった。日本が260余年に亘って海外出兵をしてこなかったという事実は、誇っていい。1607年から1811年まで12回に亘る朝鮮通信使(「信を通ずる」であって単なる連絡ではない)の往来もあった。鎖国政策をとった江戸幕府であったが、この時期、琉球王国と朝鮮とは国交があった。長崎出島でのオランダ・ポルトガルとは交易だけであって、国交があったわけではない。
台湾出兵は、宮古島島民の遭難から2年余を経てのものであったが、明治政府は当初から出兵を意図していたわけではなかった。米国の駐厦門総領事リゼンドル【注1】から、米国ならば、このような事件が発生すれば直ちに軍艦を派遣し、賠償金を取ると煽られた。
出兵の表向きの理由は先住民牡丹社討伐であったが、真の狙いは先住民地域「治理及ばず化外(けがい)の地」(清国見解)の占領とその領有にあった。台湾出兵は前記日清修好条規第1条「(両国は)いよいよ和誼を敦くし天地と共に窮まりなかるへし。又、両国に属したる邦土もおのおの礼を以て相まち、いささかも侵越する事なく永久安全を得せしむへし」に反するものであり、近・現代における日本のアジア侵略の原型をなすものであった。出兵を主導したのは大久保利通であり、反対した木戸孝允は政府を去った。
台湾出兵が日中武力衝突に至らなかったのは中国側にその「元気」がなかったからであった。この点は日本側も同様であった。まだ中国と本格的に事を構える国力がなかった。
*台湾出兵の収支勘定*
台湾出兵の収支勘定は惨々たるものであった。台湾は当時瘴癘(しょうれい)の地と呼ばれ西側平地部分に中国からの移住者が植民されていたが、中央山岳地帯には高砂族と総称される原住民が、其々の部族ごとに居住していた。牡丹社はその部族の一つである。日本軍は圧倒的な火力で、牡丹社を制圧し(日本側の戦死者12名)、その頭目らを殺害したが、病死者が続出し、3658人中、マラリアなどで、561人の死者を出した。日本軍は牡丹社頭目アルクの首ら12人の頭骨をを日本に持ち帰った。日本軍もまた「首狩り」をしたのである【注2】。
1874年10月英国の仲介により、清日台湾北京専約(日清両国互換条款)が締結され、中国側が、被害者・遺族に「撫恤(ぶじゅつ)銀(ぎん)」として10万両(テール)、日本軍が建設した道路、その他の施設の買取金として40万両(約77万円、戦費合計771万円の1割)を支出することで決着した。これ以降、中国は日本に対する警戒を抱き、日本を「中国永遠の大患」とし、「仮想敵国」とみるようになり、20年後の1894年日中の武力衝突日清戦争が勃発した。なお岩崎弥太郎は台湾出兵、及びその後の西南戦争で、政府軍の輸送を一手に引き受け、後に三井と並ぶ三菱財閥の基礎を作った。
・琉球王国の廃止、沖縄県の設置・
1879(明治12)年、明治政府は琉球藩を廃し、沖縄県とし、琉球の日中両属をやめさせ、琉球が日本領であることを明示し、尚泰藩主は廃され、首里城の明け渡しが求められ、尚泰は家族ともどもと共に東京移住を命ぜられた。一種の「人質」である。こうした手法は後に韓国皇太子に対しても用いられた。
この間対外的には、1976年の江華島条約により朝鮮との国交開
始があり、国内的には、1877(明治10)年、西南戦争の政府軍
の勝利により 1874年佐賀の乱以降の不平士族の乱の総決算が
なされ、1879年の靖國神社設立等があった。創業10余年を経て明治政府は次第に自信を付けてきており、この際、琉球の日中両属という不正常な状態を解消しようとしたのであろう。
沖縄県の設置に際し、中国は、琉球は中国領だと抗議した。日本は日清修好条規の改約(欧米列強と同様、中国に最恵国待遇を認めさせる)を条件に、南部琉球列島の宮古島以西を中国領とし、沖縄本島を日本領とする妥協案(琉案条約)を提示し、1880年10月、仮調印までなされたが、中国が日清修好条規の改約を認めず、交渉は決裂した(苫米地真理『尖閣問題』柏書房)。6年前の74年には、漂流して殺された宮古島の漁民の賠償を求めて台湾出兵をしておきながら、この交渉では、あっさりと宮古島以西を中国領とすることに同意した。自国民保護という出兵理由が口実に過ぎないものであったことを物語っている(追記参照)。
その後、1894年の日清戦争、95年の下関条約によって 日本は賠償の一部として台湾を取得し、1945年8月15日の敗戦まで領有した。尖閣諸島については、日清戦争末期に日本は国土に編入した。
これらの経緯は尖閣諸島の領有権問題を考えるに際して重要な事実である。江戸時代に作成された日本地図に尖閣諸島が入っていなかったことはともかくとして、尖閣諸島を含めて、琉球が日本の固有の領土であるという日本の主張はかなり怪しいということになる。(つづく)
台湾出兵関連年表
1609年(1603年徳川幕府) 薩摩藩による琉球王国の征服
1868(慶応4)年3月 明治維新(改元は9月)
1871(明治4)年8月 廃藩置県
1871(明治4)年9月 日清修好条規
1871(明治4)年11月
宮古島の漁民遭難台湾漂着後、 殺害される
1872(明治5)年 琉球王国の廃止と琉球藩の創設
1874(明治7)年2月~3月 佐賀の乱
1874(明治7)年5月~10月 台湾出兵
1876(明治9)年2月 朝鮮との間で江華島条約
1877(明治11)年2月~9月 西南戦争
1879(明治12)年3月
琉球藩を廃止と沖縄県の創設、中国からの抗議
1879(明治12)年6月 東京招魂社から靖國神社創設
1880(明治13)年10月
宮古島以西を中国領とする合意で仮調印するも本調印に至らず
1885(明治18)年
福澤諭吉 脱亜論 朝鮮、中国との交友謝絶等、その実態は、「奪亜似欧」論
1894(明治27)年8月 日清戦争
1895(明治27)年1月 尖閣諸島を日本領土に編入
1895(明治28)年4月 下関条約
■琉球両属と台湾出兵 廃藩置県と琉球王国の廃止・琉球藩の創設から沖縄県設置まで(下)
・沖縄中国帰属論の無理筋
中国の学者らによる沖縄中国帰属論の根拠は、その昔、沖縄(琉球)が中国の華夷秩序に組み込まれ、中国に朝貢していたというところにあるようだ。沖縄は中国、日本(島津)に両属していた。
しかし、そのような事実があるからといって、沖縄は中国に帰属すると云う論には無理がある。
1943年11月27日の米・中。英三カ国によるカイロ宣言に際し、中華民国の蒋介石総統は、事前にルーズヴェルト米大統領と日本敗北後の世界、すなわち天皇制を存続させるか否か、戦争賠償請求の有無等々について意見交換した。沖縄の帰属について問われた蒋介石は、中国は沖縄について権利を主張しないと明言し、米国による沖縄の軍事占領を進言した。この蒋介石の見解は、その後微妙に変化し、日本の敗戦後、沖縄に国民党の支部が作られ、わずかではあったが沖縄にもこれに同調し、沖縄の中国(台湾)帰属を画策する動きもあった。しかし、このような動きは沖縄住民の支持を得られず、やがて霧散した。
1972年5月15日、沖縄の日本への「復帰」に先立って、蒋介石は、これに反対し、日本への復帰の是非について沖縄での住民投票を求めた。この要求は米国に一蹴された。
もっとも、蒋介石の反対の主要な動機は、沖縄の日本復帰により在沖縄の米軍基地機能が低下することへの恐れにあった。日米安保条約の事前協議条項による米軍の行動制限、核の持ち込みを禁じた非核三原則による制約等々に対する危惧だ。韓国の朴正煕軍事政権も同様な理由で沖縄復帰に反対した(成田千尋『沖縄返還と東アジア冷戦体制』人文書院)。
これらの点については、佐藤栄作首相(当時)が、沖縄の日本復帰により、米軍基地機能に一切の変化はないと明言したことにより解決した。1967年9月、佐藤首相は訪台し、蒋介石総統にその旨約束している。
大陸の中華人民共和国は沖縄の日本復帰に異論は一切述べていない。
5月15日の沖縄復帰後の同年9月29日、日中国交正常化を実現させた日中共同声明に際し、日中間には尖閣諸島(中国名「魚釣島」)の領有問題に関しては「棚上げ」とする合意があったが、沖縄の領有問題について中華人民共和国が言及したことは一切ない。同声明第6項は、沖縄の日本帰属前提の下に、両国間の「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵」を謳っている。
以上のような経緯を見るならば、沖縄独立論はともかく、その昔、沖縄が中国に朝貢していたという歴史的事実を根拠に、沖縄の領有権は中国にあるとする論は無理筋だ。
その昔、朝鮮半島の国々も中国に朝貢していた。中国が、朝鮮半島の領有権を主張したとして、韓国国民はこれを受け入れるだろうか。
【追記】捨て駒としての沖縄
1945年敗戦間近の6月、元首相近衛文麿を特使としてソ連に派遣し、ソ連を仲介とする終戦工作構想があった。その際、近衛が携える案では、日本固有の領土を確保し、それ以外の沖縄、北方諸島の放棄もやむなしとされていた。
敗戦後の1947年9月、連合国総司令部宛ての裕仁天皇の沖縄メッセージ ― 沖縄を25~50年間に亘って米軍の基地として使用して欲しい ― もこのような流れにある。
統治権の総覧者から「象徴」になったはずの裕仁天皇のこのメッセージでは、この提案は「広範な国民の承認」が得られるだろうとされていた。「広範な国民」の中には沖縄県民は入っていなかった。多くの婦人議員が誕生した1946年4月の戦後最初の総選挙で、沖縄県民は選挙権の行使を許されなかった。
沖縄選出の最後の議員の1人、漢那憲和(かんなけんわ)は、
「帝国議会に於ける県民の代表を失うことは、その福利擁護の上からも、又帝国臣民としての誇りと感情の上からも、洵(まこと)に言語に絶する痛恨事であります。此の度の戦争に於いて六十万人の県民は出でて軍隊に召された者も、止まって郷土に耕す者も、各々其の職域に応じて奉公の誠(まこと)を尽くしました。沖縄作戦に於いては、男子は殆ど全部が陣地の構築は勿論のこと、或いは義勇隊を編制し或いは徴集せられて戦列に加わり、郷土防衛に全く軍隊同様奮闘し、師範学校及び県立一中の生徒の如き全部玉砕しております。又婦女子も衛生隊、給食隊として挺身し、国民学校の児童たちまでも手榴弾を持って敵陣に斬り込んでおるのであります。……凡そ此の度の戦争に於いて沖縄県の払いました犠牲は、其の質に於いて恐らく全国第一ではありますまいか。此の県民の忠誠に対して、政府は県民の代表が帝国議会に於いて失われんとするに当りまして、凡(あら)ゆる手段を尽し、之を防ぎ止めねばならぬと存じます。」とその不当性を訴えた(古関彰一「憲法9条はなぜ制定されたか」岩波ブックレット)。
1945年6月6日、太田實海軍少将(死後中将)が海軍軍令部次長宛てに発した訣別電報、「沖縄県民斯ク戦エリ、後世県民二対シ、格別ノ御高配賜ワランコトヲ」に対する回答がこれであった。
繰り返し示された民意を無視し、辺野古新基地建設が唯一の解決策と言い続ける現在の日本政府態度も同じだ。
【注1】
リゼンドル(仏読みではルジャンドル)は日本外務省の顧問として「台湾出兵」の参謀役を務め、後に日本に移り住み、松平春獄の娘と結婚した。その子供が大正から戦前昭和の代表的な歌舞伎役者の一人である名優15代目市村羽左衛門である。
【注2】
日本軍によって持ち帰えられた牡丹社頭目アルクら4人の頭骨は、その後、英スコットランドのエディバラ大学解剖学博物館で保管されていたが、2023年11月5日、木箱に収められて、台湾に返還された。台湾出兵から約150年を経てようやく故郷に還ることが出来た。
命を奪っただけでなく、その頭骨を持ち去り、遠く異国の博物館に「標本」として保管するという人間の尊厳を無視した西欧植民地主義の非人道性を思う。
2023年11月3日、エディンバラ大学で行われた頭骨の返還式では、台湾から参列した霊媒師が4人の霊と交信したところ4人全員が「家に帰りたい」と伝えたという(「台湾民族頭骨 なぜ英国に」2023年12月9日毎日新聞)。
内田雅敏(弁護士)